正田建設の歩み105 YEARS
of
HISTORY
正田建設株式会社は2024年におかげさまで創業105年を迎えました。
1919年(大正8年)に大工の棟梁であった創業者が安芸郡矢野町で創業。
以来、地域とともに歩んできた正田建設の歩みをご紹介します。
安芸郡矢野町立田にて建築請負業を創業
創業者
大正8年、現社長の祖父・重市が安芸郡矢野町で建築請負業を創業。重市はもともと大工の棟梁でした。当時は10人の弟子とともに仕事が舞い込むとすぐに駆け付けていました。仲間思いで、創業者の周りには常に人が集まってたそうです。
大正8年の夏、広島では豪雨による大洪水が発生しています。横川橋や三篠橋 相生橋 元安橋といった橋梁が
次々に流失し、幾千という家屋が浸水して多くの人々が被災。広島の街で未曽有の豪雨災害が起きた年のことでした。
台湾花蓮港にて建築請負
朝鮮平壌及び
平安北道満浦鎭にて建築請負
安芸郡矢野町に引き揚げ
建築請負業を継続
創業者の想い出の書
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終戦後、朝鮮より帰国の思ひ出をしのぶ
- 01.敗戦後早や二十年の秋來る
月見る度に思ひ浮ぶ故里を - 02.北鮮の畑に植ゑたる白寀を
食する度に思ひ出す故里のあじ - 03.平壌で抑留苗生活一ヶ年の
楽観の出来る日を持つつらさ - 04.脱出を思ひ立つ私等くが
三十八度線で泣く夜明けまで - 05.鮮人の道案内にまどわされ
金はうばわれ道は進まず - 06.行けど行けども夜の山道を
夜明けてみれば同じ道々なり - 07.三十八度線を無事通過
小汽車に積れて京城へ立つ - 08.明日は釜山に帰へれると
宿の一夜がねむられず - 09.ぼろ汽車でのられくて釜山港
見れば同胞山の如し - 10.我れ一勝と船に乗り
楽観して語り合ふわれぐが - 11.船は故郷へとまっしぐら
なつかしの本土も目の前に - 12.上陸して身体けん査もそこくに
お金も使へぬ旧紙へいかな - 13.其の夜は仙崎のお寺にて
無事を祝ふお酒の味じのよさ
※現在では使用されていない語彙・表記もございますが、創業者の個人的な記録のため、原文のまま掲載しております。
事業発展により安芸郡海田町で
有限会社正田建設を設立
正田辰次が代表取締役に就任
二代目
2代目の辰次は、 昭和38年に重市の跡を継ぎ、 代表取締役に就任しました。 地域の発展に尽力し、 堅実経営を心掛け、会社を大きく発展させました。
正田建設株式会社に組織変更
株式会社南條幌内張製作所
長束工場建設
(現・南条装備工業株式会社)
1960年代、東洋工業(現マツダ株式会社)はファミリアシリーズをはじめ、続々と新型車を発売。東洋工業の自動車部品を製造していた南條幌内張製作所は受注増大を受け、安佐郡(現安佐南区)に長束工場新設することになり、正田建設が建設を担当し、1964年12月に完成しました。
さらに3年後、1967年には高度経済成長の波に乗り、事業拡大する同社の八千代工場の建設にも着工。5300㎡
(1600坪)という当時の正田建設にとっては大規模な工場建設となりました。長束工業の建設から始まった同社との歴史は長く、2014年に八千代に新設されたNGIC(Nanjo
Global Innovation Center)も弊社が建設を担当いたしました。
現在の場所に本社移転
正田建設株式会社に組織変更後、
10年を迎える
正田建設株式会社 創業50周年
広島市内に初めてビルを建設
宝ビル(中区基町)
宝ビル
1970年に着工、翌1971年2月に完成した中区基町の宝ビルは、正田建設にとってはじめてとなる広島市内でのビル建設でした。地上9階地下1階の鉄筋コンクリート造は翌71年2月に完成。現在もその姿を見ることが できます。
広島市内に初めてビルを建設
宝ビル(中区基町)
創業77周年
正田 俊が代表取締役に就任
三代目(現代表取締役)
創業77年を迎えた1996年に先代の跡を継ぎ、正田 俊が代表取締役に就任。創業以来、一貫して流れている「お客様第一主義」を社員とともに守りながら、事業を継続しています。
「お客様の信頼」こそ事業繁栄の根本条件です。これからの100年についても、変わらずお客さまから必要とされる会社になれるよう、信念をもって邁進していきます。
創業77周年
正田 俊が代表取締役に就任
創業100周年
これからも正田建設は 「お客様第一主義」 をモットーに、
お客様と地域に必要とされる会社を目指して精進いたします。